戦国時代の武将と印鑑

日本の印鑑も戦国時代になってから使用が盛んになった。詩句や姓名を彫刻した私印は日常の中に僧侶、武士のまで使われるようになるとさらに広く公文書に用いられ公家文書のうちでも花押し書判よりも印鑑は印章、印判として呼ばれ使用がされはじめた。

花押しサインから印鑑に変わった理由は戦争に明け暮れていたため辞令をだすのに便利であったことがあげられる。この点から花押しはいくらか手間が辞令を出すのにはてまどったものと認められます。

また、この当時の印鑑は知識人と知恵者の武将が印鑑を所得していることは印鑑の持つ霊力と及び自己の勇猛を引き出す神宝と信じてそれそれの武将が競って印鑑や印判を作り戦場に所得して持っていたことはうなずける。印鑑の霊力発見、印鑑の福徳と吉凶は戦国時代から始まったことになります。

ここからは戦国時代に活躍し印鑑で歴史変えた武将話を紹介しよう。

(イ)今川義元(いまがわよしもと)

(1519〜1560年)戦国時代の武将、駿河の国(静岡県))の今川氏親の3男はじめは出家してお寺の僧になっていたが兄の氏輝に子供がないためその跡を継いで領国おさめた。駿河、遠江(静岡県)三河(愛知県)領分として東海地方に勢力をのばし、たびたび尾張(愛知県)を攻め織田信秀(織田信長の父)の父と戦った。甲斐(山梨県)武田信玄、相馬(神奈川県)北条氏康と同盟を結び武田氏、北条氏から攻められる心配がないと見ると、京都にでて天下に号令しようと企て1567年永禄3年五月に大軍を率いて尾張に攻めのぼった。尾張の織田信長は応戦してこれと戦った。今川勢は、諸方にある織田税を攻め落とした、戦いは今にも今川勢の勝利で終わろうとしていたが安心をしだ義元は、わずかな兵を従え桶狭間で休みを取っていた。折からの風雨を突いて信長のひきいる3、000の兵に襲われ戦死をした。それ以後、今川家は坂を下りるように衰えていた。今川義元のし使用した印鑑は、知恵者であるが自我の強さと我が儘な性格、ものこと深く考える思考力とぼしく、急速な一面をあらわした印鑑を所得していた。しかし当時の武将として2本の印鑑をもって戦争に望んだことはやはり知恵ある武将の風格は十分備わっている。義元の使用した印鑑は2本共に不揃いで印面に透き間が多いために腰砕けとなり後一歩といったところで目的を達成することができない。観相してみるに先代からの譲られた印鑑だったようである。

(ロ)武田信玄(たけだしんげん)

(1521〜1573)戦国時代の武将、武田家は鎌倉、室町時代を通じて代々甲府の国(山梨県)を支配していた。信玄は武田信虎の子として生まれ幼少名は勝千代ともいわれ太郎とも呼ばれていた。元服して晴信と改め、後に頭を剃り信玄と名乗った。

16歳で初陣して信濃(長野県)の海口城を攻め落とし、21歳の時、父の信虎にかわり甲府の城主となった。信玄は城主なると近くの国を滅ぼして南信濃(みなみしなの)一帯を自分の領土とした。領内の政治にも力を尽くし堤防工事などをさかんにして一国の洪水等を防いだ。信濃の諸国をついに平らげ最後に北信濃の村上義清をせめたが,義清は越後(新潟県)の上杉謙信に助を求め、ここに川中島の戦いが繰り広げられた。両者は11年11回の戦いをしたが勝負は付かなかった。信玄の旗は「風林火山」で有名、両者一番激戦名戦いは(1561年)の永禄4年8月であった(1572年)元亀3年に信玄は天下統一めざし駒を京都に進め、徳川家康の軍を三方ケ原(静岡県)で破り、織田信長と決戦をしようとしたが病気のために信濃の戦場にて53歳で死亡している。信玄も病気のためいますこしというところで自分の目的を達成することはできなかった。武田家の印鑑は竜印と虎印で三種類あるが全てに同型のものを使用している。信玄の天文10年以下、次代の勝頼が天正10年の死亡までこの印鑑は使われていたようである。信玄の自訓にのなかに詠われている『人は石垣、人は城、仇は敵なり』に詠われているように、「自分の領土は命がけで護こと、自分を助け協力してくれる者には親切にすれば人は石垣や城となり、国を護り迫害する者を自然と廃除してくれる者である。」詠われているが、武田家に残る3本の印鑑は上り竜、下り竜、虎の絵柄なので時の時代の城主としての印鑑は一本の使用では急がしすぎて身が持たないと言う暗示と共に使用する武将の人情と知恵の国策がなければ国は衰退するとの暗示が印鑑に現れています。

 (ハ)上杉謙信(うえすぎけんしん)

(1530年〜1578年)戦国の武将、越後の国(新潟県)の長尾為景の子に生まれ、幼年の頃は長尾景虎といっていた。影虎は7歳のときに林泉寺というお寺に預けられ、9歳のときに城に返された。天文11年に父の為景が亡くなり。兄の晴景には国を治める力がなかったために、兄に変わって謙信が家を継いで越後を納めていたが、関東の北条氏康におわれた上杉憲政から系図を譲られて上杉を名乗るようになった。後に謙信は甲斐の武田信玄と宿命的な人生遭遇に出会い川中島で11年間の激戦を繰り広げる。

謙信は自ら馬に乗り信玄を目指して敵の本陣に切り込んだが永遠に勝負はつかなかった。謙信の旗は(毘沙門天)の〔毘〕を旗印として自己の信仰を現した旗であった。信玄は後年、強敵であった信玄が亡くなったことを知って残念がったが、謙信も天下統一のために都に上がろうととして越中(富山県)能登(石川県)を領土としながらも統一の途中で病気に倒れてこの世を去ってしまった。謙信は節義を重んじる武将として敵方のかいの住民に塩を送ったという話もあり、詩歌、茶道、舞曲留たしなみもあったといわれている。謙信は信玄におくれること5年、49歳であった。

謙信の使用した印鑑は台に虎と竜の絵柄で印面には神仏守護の文字を横と縦とに彫刻舌印鑑ではあるが。

この二つの印鑑は共にバランスの統一が失われているために信玄と同じく天下統一はあとすこしのところできなかった。印鑑は上記の角印、丸印、花押し印を使用していたにもかかわらず天下統一の夢をはたしえなかった不思議な印鑑である。

(ニ)織田信長(おだのぶなが)

1532年〜1582年戦国時代の武将、織田信秀の子として尾張(愛知県)に生まれだ性格は幼少の時から強情ではげしい振る舞いが多かった。信長は16歳で清洲城の城主となり、(永禄6年)に駿河(静岡県)の大名、今川義元が京都に上ろうとして大軍をしたがえ尾張に攻めてきたとき信長は3千の兵もって桶狭間で休息する今川義元の陣を急攻撃して打ち破った。(1568年)永禄11年に信長は足利義昭を奉じて京都に入り、義昭を将軍職に就かせたがまもなく天下の実権を巡って双方が対立して、信長は義昭を追放して、室町幕府はついに滅んでしまった。信長はつづいて朝倉氏を討ち、甲斐の(山梨県)武田氏と戦った長篠の合戦では新しい武器である、鉄砲を使う戦術をあみだして戦った。

信長は近江の安土に壮大な城を築き(天正10年)武田氏を完全に滅ぼし、つづいて中国地方の毛利氏を攻める。このときまでに信長は織田家の印鑑をこしらえている。印面は楕円形で〔天下布武〕と彫刻している。〔元亀元年〕に先の一印を廃止して後同文の二重輪の馬つめ印鑑を使用して〔天正4年〕に右大臣に任命いらい、2竜頭の飾りで囲った同文の印鑑を使用した。印鑑の示す意味。初め使用の印鑑は大胆てきな活動を執行でき英知英雄運を運び頭はシャ−フな切れ味と性格を出せる印鑑であったが、二度目印鑑から性格が内らにこもる非印となり。3度目に使用した印鑑は悪印として内部の反感や自己の怒りが現れ、信長が自信もこの印鑑を使用し始めて心が狭くなったことを印鑑の印面は表現している。京都の本能寺の天正10年6月2日戦いは家来の明智光秀の反逆による討ち死にであるが信長の使用の印鑑は腹切り印として恐れられ嫌われている。

(ホ)豊臣秀吉(とよとみひでよし)

(1536年〜1598年)安土桃山時代の武将、尾張(名古屋市中村区)の生まれ。生家は農業とも織田信秀の足軽、木下弥右衛門の子ともいわれている。木下藤吉郎と名乗り〔1558年〕永禄元年、織田信長に使えて武功をたて(天正元年)近江(滋賀県)長浜城主となって羽柴秀吉と名前を改めて(天正10年)中国地方で毛利氏との交戦中に信長が明智光秀に反逆され死亡した。直ちに帰り光秀を山崎の合戦で打ち破り、天下統一のきっかけとチャンス到来のきっかけを握って、翌年秀吉は柴田勝家を滅ぼした。

(天正12年)徳川家康と小牧、長久手で戦ったが、和解して翌年、関白、その翌年には大政大臣になり大阪城を築いて【豊臣】と名乗り天下に勢威を示した。これにともない各大名の配置変え行い、九州の島津氏、関東の北条氏、奥州の伊達氏を破り天下統一を完成した。秀吉は都市の建設、検地、刀狩りなどを行い、封建制度の確立の基礎を築く一方で、明「みん」『中国』の制服をはかって(1592年)文禄元年〜数年朝鮮に兵を送ったがうまくゆかなかった。秀吉の派でごのみの性格は豪華な桃山文化を創るようになった。

さて豊臣秀吉の印鑑は直径約4センチの印不明の印鑑が有るが、「文禄12年11月」高山国『台湾』宛文書に見られる印鑑は印文に【豊臣】とあるという。これは大政大臣に任命されたときに【豊臣】の二字の姓名を賜っているためである。秀吉の印鑑は当時の【天皇御爾】印をもしのぐ大金印であったと記されている。秀吉の使っていた印鑑の特徴とよさは角印の金印、印面の文字に自分の名である【豊臣】の名字を印鑑に彫刻したことが家運繁栄にあったのです。さらに自己の国益と天下統一のために広く国外にも印鑑辞令国策は自ずと印鑑が国益を増すところにあるのです。秀吉以前の武将は自分の信念のみを印鑑に彫り込むことしかできなかったために天下統一という大事業できなかったが、秀吉は【豊臣】という自分の名字を入れることにより印鑑の霊力が増し国を統一する基礎となった印鑑ですが使用は秀吉一代限りの印鑑となっている。上記印鑑は秀吉の使用していた印鑑と花押し印です。

(へ)徳川家康(とくがわいえやす)

1542年〜1616年江戸幕府を開いた武将、三河(愛知県)岡崎城主、松平宏忠の長男。幼年の名は竹千代、元信、元康といっていた。後に家康と名乗った。6歳で織田氏、9歳から今川氏の人質と名って苦労をした。1560年(永禄3年)桶狭間で今川義元が戦死してから岡崎城に帰ってから独立した。織田信長と和を結び各地で戦い、信長の死後、豊臣秀吉と対立して、小牧、長久手と戦い勝ったが、1586年(天正14年)に和睦する。1590年(天正18年)北条氏の滅亡後に関東8カ国を領土として江戸には入った。秀吉の死後、しだいに実力を握り1600年(慶長5年)関ヶ原で天下2分の大合戦をして豊臣方石田三成に勝った。1603年(慶長8年)に征夷大将軍となって江戸に幕府を開いた。2年後将軍職を子の秀忠にゆずり、大御所として重大な事を裁き、1614年〜1615年に大阪の陣をおこして豊臣氏を徹底的に滅ぼし、徳川幕府の基礎を固めた。

内政では武家・禁中・寺院諸法制度を定め、士農工商の身分制度を厳しくして封建制度を確立した。対外的には貿易などは奨励したがキリシタン宗派は禁止した。

死後、1636年(寛永13年)日光東照宮に神として祭られ、いご江戸幕府の権威の源として300年の世が続いた。

徳川家康の作った印鑑は多種多様に多く印鑑は使用度におうして使い分けがされ、印鑑を区別した。家康は印鑑の使い分け上手の元祖ともいえる。家康が最初に使用した印鑑は細い線の二重丸の印鑑で【福徳】彫刻された印鑑で、永禄末期から文禄初頭まで使われていた印鑑です。角印の印面に彫刻されている【源家康忠怒】の印鑑は主に『御朱印船』その他の重要な文書に使われていた。家康の印鑑は今までの武将、秀吉の印鑑とは違い、印面の文字も姓名名前きちんと彫り入れられていて現在の吉相印鑑と同類の添書「てんしょ」書体にちかい文字で彫られている。徳川300年の歴史の基礎は忍耐と知勇、印鑑の使い分けの文武で築いた幕府といえる。

ここでは徳川の代々の使用していた印鑑と歴史については書略しますが、ここに徳川家の300年続いて将軍が使用した印鑑を乗せておきます。以下の将軍の印鑑は全てかお家大事の二重丸の囲い印鑑を使用している。

【代々将軍の使用していた印鑑】

この印鑑は戦国時代の武将、各大名使用していた印鑑、今も昔も印鑑は大切な役割をしているものです。印鑑の印材、印面の文字は各個人の運命を左右する。よりよい研究と慎重な知識を持って作り、印鑑は使用ることが大切でです。


日本での印鑑の定着