日本での印鑑の定着、『印鑑は首のすげ替え』

江戸時代にはいると、武士階級は文章、画商には花押し印も使用したが、どちらかといえば印鑑の方を多く使用した。江戸時代の大きな特徴の一つは印鑑が一般民衆の生活まで深く根を下ろしたところにあるのです。これは徳川幕府文治政策を打ちだすために産業の発展と民衆の安定に力を注いだ結果、町人商業階級が経済活動を自ら活性化させたために、商取引、貸し証文、個人の保証に至るまであらゆる証書書類に印鑑が用いられた。

こうした当時の社会情勢は一般の民衆の権利義務関係を保律するために生活の上で不可欠なものとして民衆の中に定着した。

しかし武士とは違い民衆には、朱印を使うことは許されなかった。一般民衆に許されたのは黒印の使用であった。この当時すでに町民、農民は印鑑使用の義務が生まれて農民は村の長、また町役人に届ける義務もあった。

届けた印鑑は必要に応じて照合できるように印鑑帳がすでに作製されていた。届けた印鑑は実印と呼ばれ、重要な文章に使用され、日常的には一般に裏印が使われていたことが記されている。日本の一般、印鑑の使用は江戸時代からの始まりが認められる。

民衆使用の印鑑は細長い丸印ひとつで実印と裏印二面のものが使用され、印材はおもに木で作った印鑑が多かった。江戸時代においても印鑑は社会生活の中に必要なものと認められていたために『印鑑は首のすげ替え』といわれるようになって、命から二番目に大切な物として大切に扱われるようになった。

こうした一方で印鑑が重要になってくると、これにともなって他人の印鑑を勝手に使用、偽造する者が多くでるために、国では重い刑罰が科せられるようにもなってきた。刑罰の重い者はしちゅう引き回しうえ獄門さらし首という刑罰も設けられていた。

江戸時代は、政治の実権は幕府が握っていた。ために天皇の国事は存在しなかったので国事はすべて幕府の手にゆだねられていた。江戸時代には各国に奉行職が設けられ裁判の時は各藩の奉行は自分の実印を捺印してこれに各自の花押し印を加える習わしもあった。


印鑑かサインかの論争のうえで定まった『日本の印鑑』

江戸幕府も終わり、新政府明治時代に入ると新政府はかっての律令制度にのとって官印を復活させて現在に至っている。〔略す〕

明治の新政府に変わったとき明治政府は一般の印鑑の使用について、印鑑を廃止してサインにしたほうがよいかそのまま印鑑使用の方がよいか廼の大論争が国会で論争されたと記されている。(内容については略します。)

再び印鑑の使用と決定されて(明治33年)に議会を通過して法律の第17条として成立している。公布された印鑑は、法律のうえで有効力をあらわしており、現在の日本社会は印鑑なしでは成り立たない印鑑万能の社会と力を博している。

簡単に考えてみても印鑑がなければ土地や家、銀行預金、郵便局の荷物さえも受け取ることもてきない。最も重要な書類となると印鑑証明などが必要として要求されます。遺言に至っても本人が押したと認められる印鑑でなければ法律では認められません。印鑑は(揺りかごから墓場)まで必要な物です。印鑑使用の背景には下記のような5つの条案が浮上してきたためといわれています。

A、日本人に要求して昔から風習あるのであわない。

B、日本人は印鑑になれて、印鑑の美を永く固守してきた。

C、実業家や商人とっては株やその他の物に一々サインすることは不便で不合理。

D、印鑑で有れば、偽造印でも見分けられるがサイン場合は見分けが困難。

F、いんかんは金庫に保管ができるから,盗難の心配がない。

以上のような理由によって現在の印鑑は一般国民に使用されるようになった。印鑑は約450年の歳月の中で生き物のようになって人間を支配する物として、新たに印相学の研究が進められ、印鑑の使用と運命が論ぜられようになって一層美的な個人にあった印材、印面の吉相開運印鑑『開運祈祷印鑑』が作られるようになった。

吉相印鑑の始まり