我が国における印鑑の起源

日本の古代人は『土印』と呼ばれるスタンプ型の土で造った物っていたようでありますが、これは円形、楕円形の表に数々模様が彫ってあり短い柄が付いていた。スタンプ型の出土品は北海道、東北、関東地方から多く発見され縄文時代の後期の遺跡後から出土していますが。出土品を調べてみると赤色の香料を塗った後が見られ衣料その他の模様を押すためにも用いていたことも推定されます。土印の後の方に穴があいているところを見ますと柄の穴のあいている部分に紐をとうし首にかけ身につけて物に違いなく装身具が身を守る所の護符として使用されていたのではないかと思われます。

したがって古来、日本に印鑑が存在していたとはいいきれない。というのは紀元前3世紀〜7世紀の古墳時代の遺跡から印鑑は発見されていない実例から見て、古代においては印鑑を使うという風習はまだなかった物推定できます。

日本で初めて印鑑を使い始めたのは大化改新のあとで日本の遣唐使をつうじて中国文化のひながたを日本に取り入れて文物文化制度の改革をしようとしてから取り入られたようであります。大宝元年(701年)に制定された大宝律令に〔新印様を公布す〕とあり『日本書紀』のなかにも、慶雲元年の条に「鍛冶司して諸国に印を鋳造さしむ」と記したるものがあるところをみると日本で印鑑が使用され始めたのは新しい律令制度ができてからのこと考えられます。「略す」

日本の印鑑は奈良朝時代に官印の様式が、公式令によって制定された。それによると、内印と外印に区別されていて、内印は『天皇御爾=てんのうごじ』これは天皇印で、外印は『大政官印』で中央政府のものとして使われていた。内印の使用は五位以上の公官、外印の使用は六位以下の使用とした。すでに奈良時代の官印には白文はなく、すべてに朱印が使われていた。外印いがいの印としては省司印、諸国印があったがこれらには公式令が定められていた。「内印3寸、外印2寸5分、省司印2寸2分、諸国印2寸」と規定があり印鑑は大きさで公文、外文の区別も定められていた。省司印は八省、省寮、使用はおもに省司等がから上に知らす公文に使われ、諸国印は地方からお上にあがる公文や贈り物の捺印印鑑として使われていた。

このほかの公式印鑑としては公式令の条の最初に【天子神爾】という印鑑があったが【日壽爾、神宝にして使わず】一種の宝としての尊物とした。こうした印鑑は、漢の光武帝、秦の始皇帝等の【伝国之爾】国印として同じ意味の印鑑であったのではと推測されます。

当時は国印以外に一般に個人印鑑のしようは禁じられていた。初めて印鑑使用を許されたのは奈良時代の後期に「藤原仲麻呂」が【天皇】の許しを受けて恵美家印が認可された。


足利義満に明の皇帝から送られた金印